マツダは、日本を代表する自動車メーカーのひとつとして、独自の技術とデザインを追求し続けてきました。その歴史は1920年の「東洋コルク工業株式会社」設立に始まり、三輪トラック「マツダ号」の成功、戦後の復興を経て、四輪車市場への本格参入へと発展しました。
1960年代にはロータリーエンジンの開発に成功し、「コスモスポーツ」などの革新的な車を生み出しています。さらに、1979年にはフォード社との資本提携を行い、グローバル戦略を強化。2000年代には「Zoom-Zoom」スローガンのもとでブランド再生を図り、SKYACTIV技術と魂動デザインによって新たな時代を切り開きました。
現在、電動化社会への対応やトヨタ自動車との提携を進め、持続可能なモビリティの実現を目指しています。本記事では、マツダの創業から現在までの歴史を紐解き、これからの挑戦について詳しく解説します。
はじめに
マツダ株式会社は、1920年に広島県で創立された日本の自動車メーカーです。
本社は広島県安芸郡府中町新地3番1号に位置し、代表取締役社長兼CEOは毛籠勝弘氏が務めています。
マツダは、その独自性を大切にし、挑戦を通じて社会に新たな価値を提供することを目指しています。

さらに、トヨタ自動車との業務資本提携を通じて、電動化社会への対応や次世代技術の開発にも積極的に取り組んでいます。これらの取り組みを通じて、マツダは世界的な自動車メーカーとしての地位を確立し続けています。
創業期:コルク製造から機械工業への転換
1920年の「東洋コルク工業株式会社」設立
マツダの歴史は、現在の自動車メーカーとしての姿からは想像もつかない「コルク製造業」から始まります。1920年(大正9年)、東洋コルク工業株式会社が広島県広島市中島新町(現在の広島市中区)に設立されました。当初は、ワインや日本酒の瓶栓に使用されるコルク製品を製造する会社でした。
設立当時の日本は、産業革命を経て工業化が進んでいたものの、コルク製品は主に輸入に頼っていました。そこで、国産のコルク製品を開発することで、国内市場でのシェアを獲得する狙いがあったのです。特にコルクは、当時の冷蔵技術や防音材としても注目されており、需要が高まっていました。
東洋コルク工業は、短期間で事業を軌道に乗せ、品質の高いコルク製品を生産することで、日本国内の需要に応える企業へと成長していきます。

松田重次郎氏の二代目社長就任と圧搾コルク板の開発
創業から間もない1921年(大正10年)、松田重次郎(まつだ じゅうじろう)氏が東洋コルク工業の二代目社長に就任しました。松田重次郎氏は、職人としての経験と強い経営手腕を持ち、単なるコルク製造に留まらない新たな事業展開を模索していました。
その一環として、同社は圧搾コルク板の開発に成功します。圧搾コルク板とは、コルクの屑を圧縮し、再利用できる形に加工したもので、主に冷蔵庫の断熱材や船舶・建築資材に使用されました。これにより、コルク産業の効率化が進み、東洋コルク工業はさらに成長を遂げたのです。
松田氏は、この成功をきっかけにコルク製造業だけでなく、より広範な工業分野へと進出することを決意します。

工場火災からの復興と機械工業への進出
順調に成長していた東洋コルク工業でしたが、1925年(大正14年)に大規模な工場火災が発生します。工場の約70%が焼失し、事業継続が危ぶまれるほどの大きな損害を受けました。
この危機に際し、松田重次郎氏は単なるコルク製造業に依存しない経営体制への転換を決断します。彼は「会社が生き残るためには、新たな事業に挑戦するしかない」と考え、機械工業への進出を決意しました。
1927年(昭和2年)、会社は社名を「東洋工業株式会社」に変更し、新たなスタートを切ります。この時点で、まだ自動車産業には参入していませんでしたが、工作機械の製造を手掛けるようになりました。
工作機械とは、金属部品を削ったり、加工したりするための機械であり、当時の日本では工業化が進む中で需要が高まっていました。東洋工業は、これまで培ってきたコルク製造技術を応用し、独自の機械を開発し始めます。
この機械工業への転換が、後の自動車産業への進出への布石となり、マツダの歴史において重要な転換点となりました。
東洋コルク工業としての創業から、機械工業への転換を果たすまでのこの時期は、マツダの成長の基盤を作った重要な期間でした。松田重次郎氏の強いリーダーシップと、危機を乗り越える決断力がなければ、マツダは今日のような世界的な自動車メーカーにはなっていなかったかもしれません。
自動車産業への参入と三輪トラック「マツダ号」の成功
1931年の三輪トラック「マツダ号」DA型の発売
マツダ(当時の東洋工業)は、1931年に初の自動車製品となる三輪トラック「マツダ号」DA型を発売しました。

「マツダ号」の特徴と市場での評価
「マツダ号」DA型は、以下のような特徴を持っていました。
高性能と大きな積載量:クラス最高の性能と最大積載量を実現しており、商業用途での高い実用性を提供しました。
部品の国産化:エンジンをはじめとする主要部品を自社で製造し、国産化を推進しました。
独自技術の採用:特許取得済みの後退ギア付きトランスミッションやリアディファレンシャルを搭載し、操作性と耐久性を向上させました。
これらの特徴により、「マツダ号」は市場で高い評価を受け、日本の三輪トラック市場におけるエポックメイキングな存在となったのです。

工作機械や削岩機の生産開始
東洋工業は、自動車生産だけでなく、工作機械や削岩機の製造にも乗り出しました。1935年には、「トーヨーさく岩機」を開発し、高い素材技術や加工技術を活かして優れた製品を生み出しました。
これらの取り組みにより、マツダは自動車産業への参入を果たし、技術力と製品力で市場に確固たる地位を築きました。
戦時下の挑戦と戦後の復興
軍需生産への対応と兵器製造
1930年代後半から日本は戦時体制へと突入し、多くの企業が軍需生産に従事するようになりました。東洋工業(現マツダ)もその例外ではなく、軍需会社としての指定を受け、兵器製造に取り組むこととなります。具体的には、小銃や側車付き二輪車の製造を行い、戦時下の需要に応えていました。
この期間、東洋工業の従業員数は増加し、1941年度には約1300人だったのが、1943年には3200人にまで拡大しました。これは、戦時下における生産拡大と軍需産業への転換が影響しています。

広島原爆投下による被害と復興への貢献
1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下されました。東洋工業の工場は爆心地から約5キロメートル離れた広島県府中町に位置していたため、建物の一部が損壊する被害を受けました。また、従業員119人が原爆により命を落としました。
それにもかかわらず、東洋工業は広島の復興に向けて迅速に動き出します。原爆投下直後から、県や報道機関に建物を提供し、復興活動の拠点として活用したのです。さらに、社長の松田重次郎氏とその長男である恒次氏は、被爆から1カ月後には生産再開に向けて資材調達に奔走しました。
戦後の三輪トラック生産再開と市場拡大
戦後、物資輸送の需要が高まる中、東洋工業は三輪トラックの生産を再開します。1945年12月には、資材不足の中で部品をかき集め、10台の三輪トラックを完成させました。これらの車両は、広島の復興期の物流を支える重要な役割を果たしています。
その後、生産台数は徐々に増加し、1947年には年間2430台を生産し、三輪トラック業界のトップに立ちました。これにより、東洋工業は戦後の日本における輸送手段の供給に大きく貢献し、同時に自社の市場拡大を実現したのです。
戦時下の軍需生産から戦後の復興期における三輪トラックの生産再開まで、東洋工業は多くの困難を乗り越え、地域社会と経済の再建に寄与したのです。
四輪車市場への進出とロータリーエンジンの開発
1960年の初の乗用車「R360クーペ」の発売
マツダは、1960年に初の乗用車となる「R360クーペ」を発売しました。

ロータリーエンジンの開発と「コスモスポーツ」の登場
マツダは、他社との差別化を図るため、1960年代初頭からロータリーエンジンの開発に着手しました。ロータリーエンジンは、従来のレシプロエンジンとは異なる構造を持ち、小型・軽量で高出力を実現できる可能性があったのです。しかし、開発当初は技術的な課題が多く、実用化には困難が伴いました。それでも、マツダは諦めずに研究を続け、1967年に世界初の2ローター式ロータリーエンジンを搭載した市販車「コスモスポーツ」を発売しました。

ロータリーエンジンの技術的特徴と市場での評価
ロータリーエンジンは、三角形のローターが回転することで動力を生み出す独特の構造を持ち、以下のような技術的特徴があります。
小型・軽量:部品点数が少なく、コンパクトな設計が可能で、車両全体の軽量化に寄与します。
高回転・高出力:レシプロエンジンに比べて高回転域での安定性が高く、スムーズな加速が可能です。
低振動・低騒音:回転運動主体のため、振動や騒音が少なく、快適な乗り心地を提供します。
これらの特徴により、ロータリーエンジンは市場で高い評価を受けました。特に「コスモスポーツ」は、その革新的なエンジンと美しいデザインで、多くの自動車ファンを魅了したのです。しかし、燃費や排出ガスの問題、製造コストの高さなどの課題もあり、普及には限界がありました。それでも、マツダはロータリーエンジンの可能性を追求し続け、後の「サバンナRX-7」や「RX-8」などのモデルに搭載し、独自の技術として磨きをかけていきました。

マツダの四輪車市場への進出とロータリーエンジンの開発は、同社の技術革新と挑戦の歴史を象徴しています。
国際化とブランド戦略の展開
1979年のフォード社との資本提携
1979年、マツダは経営基盤の強化を目的に、アメリカの自動車大手であるフォード・モーター・カンパニーと資本提携を結びました。

前輪駆動方式の採用と新モデルの投入
1980年代に入り、マツダは技術革新と市場ニーズに応えるため、前輪駆動(FF)方式を積極的に採用しました。1980年に発売された5代目「ファミリア」は、FF方式を採用し、斬新なデザインと優れた燃費性能で若者を中心に支持を集めています。
さらに、1982年に登場した4代目「カペラ」もFF方式を採用し、高い評価を受けました。これらのモデルは、日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞するなど、市場での成功を収め、マツダの技術力とデザイン力を示す代表的な車種となっています。
社名を「マツダ株式会社」へ変更し、ブランド名と企業名を統一
1984年、マツダは社名をそれまでの「東洋工業株式会社」から「マツダ株式会社」へと変更しました。これにより、ブランド名と企業名を統一し、グローバルなブランド戦略を強化しました。この変更は、世界市場での認知度向上とブランドイメージの統一を図る重要な施策であり、マツダの国際的な展開を加速させる一因となっています。

1979年のフォード社との資本提携、前輪駆動方式の採用による新モデルの成功、そして社名変更によるブランド統一は、マツダの国際化とブランド戦略の展開における重要な節目となりました。これらの取り組みにより、マツダは世界的な自動車メーカーとしての地位を確立し、現在に至るまで革新と挑戦を続けています。
経営危機と再生への取り組み
バブル崩壊後の経営危機とフォード社との協力強化
1993年頃から、日本はバブル経済の崩壊により深刻な不況に陥ります。この影響を受け、マツダも販売不振や過剰生産能力などの問題に直面し、経営危機に陥りました。この状況を打開するため、マツダは既に資本提携関係にあったフォード社との協力を一層強化します。フォードから経営陣を招聘し、経営改革を推進することで、コスト削減や生産効率の向上を図りました。

ブランド戦略の再定義と新型車の開発
経営再建の一環として、マツダはブランド戦略の再定義に取り組みました。2000年に発表した中期経営計画「ミレニアムプラン」では、工場閉鎖や人員削減といった厳しい施策を実施し、経営基盤の強化を図っています。
その後、新しいブランド戦略に基づき、マツダのDNAを反映した新型車の開発を進めました。具体的には、「アテンザ」や「デミオ」、「アクセラ」といった基幹車種を次々に市場投入し、商品主導の成長を目指したのです。
“Zoom-Zoom”スローガンの導入と新生マツダの浸透
2002年、マツダは新たなブランドメッセージとして「Zoom-Zoom」を導入しました。この言葉は、子どもがクルマを見て「ブーブー」と表現するような、動くことへの純粋な喜びを意味しています。マツダはこのスローガンを通じて、すべての顧客に「走る歓び」を提供することを目指しました。
このように、マツダは経営危機を乗り越え、ブランド戦略の再定義と「Zoom-Zoom」スローガンの導入を通じて、新生マツダとしての地位を確立しました。これらの取り組みは、現在のマツダの成長と発展の礎となっています。
次世代技術とデザインへの挑戦
「SKYACTIV」技術と「魂動」デザインの導入
2010年、マツダは革新的な技術とデザイン戦略を導入し、ブランドの刷新を図ります。その中心となったのが、「SKYACTIV(スカイアクティブ)」技術と「魂動(こどう)デザイン」です。
SKYACTIV技術は、エンジン、トランスミッション、ボディ、シャシーといった車両の基本構造を全面的に見直し、燃費性能や走行性能を向上させることを目指した技術群です。特に、エンジンでは高圧縮比を実現し、燃焼効率を大幅に高めることで、環境性能と動力性能の両立を図りました。
一方、魂動デザインは、「生命感」をテーマに、車両に躍動感と美しさを与えるデザイン哲学です。「引き算の美学」を追求し、余分な要素を削ぎ落とすことで、シンプルでありながら力強いフォルムを実現しています。このデザインは、2010年のロサンゼルスオートショーで発表されたコンセプトカー「靭(しなり)」で初めて披露され、その後の市販モデルに反映されていきました。

新世代商品の展開と市場での評価
これらの新技術とデザインを初めて全面採用した市販モデルが、2011年に発表された初代「CX-5」です。CX-5は、優れた燃費性能と走行性能、そして洗練されたデザインで高い評価を受け、マツダの新たなブランドイメージを確立するモデルとなりました。
その後、「アテンザ(Mazda6)」「アクセラ(Mazda3)」「デミオ(Mazda2)」など、SKYACTIV技術と魂動デザインを採用した新世代商品が次々と投入され、世界中の顧客から支持を集めました。特に、2019年に発売された「MAZDA3」は、そのデザインと性能が評価され、2020年の「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」を受賞しています。

トヨタ自動車との資本業務提携と電動化社会への対応
マツダは、急速に進む自動車業界の電動化やコネクティビティの潮流に対応するため、2017年にトヨタ自動車と資本業務提携を結びました。この提携により、両社は電動化技術の共同開発や、米国における共同生産拠点の設立など、多岐にわたる協力を進めています。具体的には、2018年に合弁会社「マツダトヨタマニュファクチャリングUSA」を設立し、米国市場向けの車両生産を開始しました。
さらに、マツダが長年培ってきたロータリーエンジン技術をトヨタが取り入れることで、両社の強みを融合させた革新的な車両づくりが進められています。これにより、トヨタは独自の電動化戦略に多様な選択肢を加えることが可能となり、マツダも電動化社会への対応を加速させています。
マツダは、SKYACTIV技術と魂動デザインの導入により、技術革新とデザイン美学を追求し続けています。さらに、トヨタ自動車との提携を通じて、電動化社会への対応を強化し、持続可能なモビリティ社会の実現に向けて邁進しています。
おわりに
マツダのこれからの展望と挑戦
マツダは、2030年に向けたビジョンとして、「走る歓び」で移動体験の感動を量産するクルマ好きの会社になることを掲げています。

- 地球温暖化抑制への取り組み
マツダは、2050年までにサプライチェーン全体でのカーボンニュートラル達成を目指しています。また、2035年までにグローバル自社工場でのカーボンニュートラル実現を計画しており、CO₂排出量削減に向けた具体的なロードマップを策定しています。 - 安全・安心なクルマ社会の実現
マツダは、心と身体を見守る技術の開発を進め、誰もが安全・安心・自由に移動できる社会の実現を目指しています。これにより、交通事故の削減やドライバーの負担軽減に貢献し、より快適なモビリティ体験を提供することを目指しています。 - マツダ独自の価値創造
「走る歓び」を追求し、日常に動くことへの感動や心のときめきを創造することで、一人ひとりの「生きる歓び」に貢献します。これを通じて、マツダはクルマ好きの会社として、顧客との深い共感と信頼関係を築いていきます。
さらに、マツダは新型車の開発にも注力しており、2025年以降にデビューが予想されるモデルや商品改良の情報が報じられています。

このように、マツダは環境問題への対応、安全技術の向上、そして独自の価値創造を通じて、これからも社会に貢献し続けることを目指しています。その挑戦は、クルマを愛するすべての人々に新たな感動と喜びを提供し続けることでしょう。